沉默的多数派(1 / 2)
ps:不用订
三後醍醐の新政を成立から足利が南北朝合一まで
正2年(1333年)には後醍醐が岐を脱出して伯耆に滞在し、それ以降、朝廷の政治的行をすべて取り消した。
後醍醐は、京都にするし、後伏の政が停止され、光が位されたのはもちろん、後醍醐はそもそも元3年に自分が位された事自体をめず、岐に配流されていたも自分はずっと天皇に在位していたという立をとり、って光の即位と在位も“なかったこと”にされた。後宇多の言はなお有であり、いったん自らの退位をめてしてしまえば、治天として政をる格も子に皇位をえる格も失われかねないことを後醍醐はよく承知していたのである。光にはいちおう上皇の称号と待遇が与えられたが、それは通例の前天皇にする遇措置ではなく、あくまでも皇太子の地位を辞退したことにする褒であることが明示された。光から将来治天として政をる格をう措置であった。後伏は前途を悲して出家している。康仁も皇太子をされ、王の称号までもわれた。翌年、持明院の地位は完全に否定された。
でも、足利尊氏の反ため、建武の政が崩れる、南北朝へいった。
その期は後醍醐がさまざまな凶暴政策をしまった。
北家の家奏はもしこの意をき届けていただけないなら、自分は天皇のもとを辞して山中にこもると激越な文章でばれている。
だって、後醍醐の建武政は京都のみを重、後醍醐が画した大内造画でさまざまなの税が民心の疲弊と各地の反乱の要因、恩の不公平、宴会で莫大な用を使っていたこと、朝令暮改的な行、官位相当制や官の世制を打破など、それらの新政は公武の心と反乱の主因であろう。
正平三年(1348年)、高直が北朝を率いる吉野をし、四条のいで楠正行を北されて、後村上天皇も伊花へ一旦を避けたが、後名生へ移った。南朝が大危である。
でも、元年(1500年)、つまり二年後の南朝正平五年、足利氏が内であった。の乱をよばれた。翌年足利尊氏は光明寺合と打出浜のいに相次いで北、足利直が高直一族を亡した。同年十月、尊氏は直を追ために、北朝を放、南朝と和睦、これは正平一と呼ぶ。
その後、尊氏は南朝後村上天皇の直追の旨をえる、へ出し、のいと相模早川尻のいをつ、正平7年(3年、1352年)1月、に追いみ降伏させる。
そのごろ、北房は北朝持明院を底的な亡を画、一的に京都とを回した。その画のは、持明院は底的な亡なら、真の南北朝の一もえる、足利氏も幕府の合法性のため、南朝を臣服せざるを得なかったであろう。
かに、北房は北朝の光·光明·崇光の3人の上皇と皇太子直仁王を拉致、名生へ移され、幕府と北朝は深刻な政治的危に直面することになったのである。
まず、南朝は尊氏の征夷大将を解任、幕府の存在が大危である。北朝朝廷も治天·天皇·皇太子·神器不在の事にった。つまり、幕府も、朝廷も政自体が法的根を失ってしまう状になった。
北朝·幕府には政の中心たるべき治天の君·天皇が不在となり、全ての政·人事·式·祭事が停滞することとなった。この停滞の影は甚大で、公家·武家ともに政治能不全にってしまった。
太のは、その、南朝にする上皇·王返交で、来の迭立が回、せめて皇太子直仁王を返、後村上天皇の皇太子として皇位承であった(2年12月15日·17日条)。だけど、南朝との交が裂したが、北朝·幕府光上皇の皇子弥仁王が天皇となることは定せざるを得なかった。しかしながら、皇位承に当たり、当の先例では、神器がなくとも最低限、治天の君による国宣が必要とされていた。しかし、宣すべき上皇の不在が最大のとなっていた。
そのを解ため、事をした道誉、元白二条良基らは修寺や尊氏と相って、光·光明の生母院に治天の君となることを要し、困な折の上ようやく受を取り付けた。その前、女性治天の君は来先例がいである。
もちろん、3年6月25日に良基は院から白の命を受け、それも良基が院に治天の君となることを同意の一つ条件であろう。
この程で和平想に失した公とその戚である一条通·司平らの政治力は失し、政は良基及び九条教·近道嗣ら新帝支持を断した少数の公卿らによってしていくことになる、それは良基の天下独へ始めるであろう。
だが、朝廷では三の神器のない天皇の即位にしてが出した。その、良基は尊氏が(草)となり、良基が(八尺勾玉)となる。何ぞ不可ならんと啖呵を切ったと言われている。
後白河法皇が後羽天皇を即位させた例にあるとはいえ、だたし、後羽天皇より、北朝の威は大幅に低下し、女性治天の君はもちろん例、威の失も当然であった。そして、この一の流れは正平一と相まって、後に北朝でなく南朝に皇の正性をめるも北朝の威が低下の一つ原因であろう。
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